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さらに二度目の訪問については、
「11月28日に、私たちはシックストウス礼拝堂へ二度目の見物に出かけ、天井が近くながめられる廻廊を開いてもらった。廻廊が非常に狭いので、われわれは互に押し合いながら、いくぶんの困難といささかの危険をも冒して、鉄の手摺につかまりながら通りすぎるのだから、眩暈に襲われやすい人は一向に進まない。しかし、こうした苦しさも、最も偉大な傑作を眺めることによって、十分に償われる。私はその瞬間すっかりミケランジェロに心を奪われてしまい、大自然さえ彼ほどの味わいをもたないように思われた。私にはどうしても自然を彼ほどの偉大な眼をもって見ることができないからである。こんな絵をしっかりと心に留めうる一つの手段でもあってくれたらと思われる。せめて、これらの絵の銅版画や模写でも、手にはいる限りは持ってかえるつもりだ。
- 私たちはそこからラファエロの画廊へでかけて行ったが、これは見るべきではなかったと言わざるを得ないくらいだ。われわれの眼はさきの絵の偉大な形姿と、すべての部分のすばらしい完成とに拡大され肥やされて、アラベスクのこの巧妙な遊戯を見るに堪えないのだ。聖書物語も美しいには美しいが、前の絵とはとうてい拮抗すべくもない。もっとも、この両者の作品を折々見くらべ、十分の時間をかけて先入見なしに比較したらずいぶんと面白かろう。何といっても、すべての関心は最初一方に偏しやすいものであるから」。
ゲーテは二度目のローマ滞在中にも、1787年8月23日付で次のように記しています。
- 「‥‥ところで私は、いったい男一匹がどれだけの物を制作し、また成就し得るかということについて一個の概念でも得られるようにと、どれほど諸君もここにおられたらと願ったことであろうか!シックストウス礼拝堂を見ないでは、一人の人間が何をなし得るかを眼のあたりに見てとることは不可能である。偉大で有能な人物のことをたくさん人に聞いたり本で読んだりするが、しかしここにはそれが頭上や眼前に未だに生き生きとして存在するのである」。
ここでまた話を1786年11月22日に戻します。この日ゲーテはシックストウス礼拝堂を出た後に、聖ピエトロ寺院の屋根に登っています。
- 「ついに私たちは寺院の屋根に登った。そこからはよく整った市街が仔細に点検される。家並、倉庫、泉、(それらしいと思われる)教会や大殿堂。すべて空中に浮き上り、そのあいだに美しい散歩道が通じている。さらに円蓋に登ると、アペニン山脈の明媚な地方やソラクテ山が見え、ティヴォリの方面に当っては火山丘、フラスカティ、カステル・ガンドルフォそれにつづいて平原、そのまた向うには海が眺められる。すぐ眼のまえにはローマ全市が、例の山上宮殿や円頂閣などを擁して、全幅のひろがりを見せている。風はそよがず、この銅の円蓋の中はまるで温室のように暑い」。
ゲーテの筆はわれわれを聖ピエトロ寺院の円蓋の上にいるかのような錯覚に誘います。 この日はまたチェチリアの祭日に当たっており、ゲーテはこの後河向こうのチェチリア寺院に出かけています。ここではゲーテは声の協奏曲の素晴らしさについて語っています。スタンダールがイタリア紀行の中で、盛んにケチをつけているヴァチカンの去勢歌手の歌は、あるいはこのゲーテの文章を意識したものかもしれません。
このようにゲーテはローマのあらゆる場所に顔を出します。また世相にも通じています。
- 「この国の人民については、彼らが宗教や芸術の華美と尊厳との下にありながら、なおさながら洞窟や森林に住んでいるのと何ら異なるところのない自然人であるという以外、他の言葉を知らない。すべての外国人の眼につくもの、今日もまた全市の噂に上っているーもっとも噂に上るだけなのだがーーものはよく起る殺人事件である。われわれのこの区でも、この3週間に、4人もの人が殺された」。
ゲーテもやはりその当時のローマに住む人びとについて、15世紀ローマを訪れて、その荒廃を嘆いたアルベルト・デ・アルベルティと同じ感慨をもったようです。
ゲーテが特に感銘を受けたものとして、
- 「そのうちの二三は圧倒的にわれわれの心を捉え、われわれはそのために暫くは他のものに対して無関心だったり、不当だったりする。例えば、パンテオン、ベルヴェデレのアポロ、二三の巨大な頭部彫刻、それにまた最近ではシックストウス礼拝堂、そういったものが私の心をすっかり魅了して、それ以外のものはほとんど何も眼にとまらない」。
ここにも語られているように、古代ローマの遺跡の評価は当然として、ミケランジェロに対するこの高い評価は、いわゆるルネッサンス期の作品についてのゲーテの見方を示すものといえます。
ここで注目したいことは、天井画の制作が1508年から4年間、中央正面祭壇の最後の審判が1534年から1541年の間に描かれたことです。この時期は1527年のいわゆるサッコ・デ・ローマとそれに続く1530年のテヴェレ河の大氾濫でローマの人口がわずか3万人まで減少したまさにその時にあたります。
もしこの時期をルネッサンスの最盛期などと考えると、それは人類史上でも人々の生活にとって最低の時期であったという皮肉な事実があるのです。
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