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ここで少し寄り道をして、ヨーロッパでの旅の原点に帰って考えてみましょう。
今でこそ旅行のガイドブックといえば、フランスのみしゅらんの名が浮かぶ方が大多数かと思いますが、元来は英国で発行されており、その後ドイツのベデカが全盛期を迎えます。永井荷風も島崎藤村もフランスへ行くのにベデカを持っていきました。
周遊型の旅から一ヶ所滞在型に変わる段階で、まず金持ちクラスに流行したのは避寒地だったようです。コート・ダジュールのニースの海岸通りはプロムナード・ダングレテール(英国の散歩道)と呼ばれていますが、これも避寒地が英国人によって開発された名残りではないでしょうか。
その他スイスのアルプスも、アドリア海の真珠と呼ばれるドブロブニクも、英国人によって全ヨーロッパに紹介されました。
さて話を本題のギボンに戻します。
ギボンは『ローマ帝国衰亡史』の最終第71章の冒頭に、前述の自らの体験を重ね合わせて次のように述べています。
この文章に続いて、ギボンはローマの遺跡の破壊の原因について次のように述べています。
ギボンはパンテオンやコロセアムを例に引きながら、(4)を破壊の最も有力強大な原因とし、(3)と不可分の関係にあるとしています。この点については、クリストファー・ヒバートもその著書『ローマ ある都市の伝記』の中で、1444年3月にローマを訪問したアルベルト・デ・アルベルティに次のように語らせています。
まずカピトリーノの丘に登って、古代に思いを馳せるとしても、ルネッサンス期以降の建物が眺望を妨げている、現代のローマで、何を見たらよいのでしょうか。明治、大正の先輩の中には、アンデルセンの『即興詩人』を手元に置いた人もいました。その中の一人といってもよいと思いますが、和辻哲朗の『イタリア古寺巡礼』もお薦めの一冊です。