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 ここで少し寄り道をして、ヨーロッパでの旅の原点に帰って考えてみましょう。

今でこそ旅行のガイドブックといえば、フランスのみしゅらんの名が浮かぶ方が大多数かと思いますが、元来は英国で発行されており、その後ドイツのベデカが全盛期を迎えます。永井荷風島崎藤村もフランスへ行くのにベデカを持っていきました。

周遊型の旅から一ヶ所滞在型に変わる段階で、まず金持ちクラスに流行したのは避寒地だったようです。コート・ダジュールのニースの海岸通りはプロムナード・ダングレテール(英国の散歩道)と呼ばれていますが、これも避寒地が英国人によって開発された名残りではないでしょうか。

 その他スイスのアルプスも、アドリア海の真珠と呼ばれるドブロブニクも、英国人によって全ヨーロッパに紹介されました。

  

さて話を本題のギボンに戻します。

ギボン『ローマ帝国衰亡史』の最終第71章の冒頭に、前述の自らの体験を重ね合わせて次のように述べています。

 

 「法王エウゲニウス四世の晩年(在位1431-47)、彼の二人の家臣すなわち篤学なポッジオ(ポッギウス)と一人の僚友とがカピトル山に登り、石柱や神殿の廃墟のあいだに腰をおろして、‥‥‥変化にとんだ廃墟の光景を展望した」。

 この文章に続いて、ギボンはローマの遺跡の破壊の原因について次のように述べています。

 「私は精励な調査の結果、ローマの破壊のために1000年以上の期間を通じて作用しつづけた四つの大原因を識別することができる。
(1)時と自然の加害、(2)蛮族やクリスト教徒の敵対的攻撃、(3)材料の使用と濫用、及び(4)ローマ市民間の内部的抗争、すなわちこれである。」

 ギボンはパンテオンやコロセアムを例に引きながら、(4)を破壊の最も有力強大な原因とし、(3)と不可分の関係にあるとしています。この点については、クリストファー・ヒバートもその著書『ローマ ある都市の伝記』の中で、1444年3月にローマを訪問したアルベルト・デ・アルベルティに次のように語らせています。

 「この都市の有様については他の人たちからお聞きになっていることでしょう。だから、わたしは簡単に述べましょう。無数の豪華な邸宅や屋敷、墓所や寺院、その他の建造物がありますが、すべて荒廃しています。古代の建築物の斑岩や大理石が沢山ありますけれども、大理石は毎日言語道断なやり方で石灰用に燃やされて破壊されています。現今の、つまり新しい建物は粗末な代物です。ローマの美は荒廃の中にあります。ローマ市民と称する現代の人びとは、古代の住民とは態度、行状において大変異なります。手短に言えば、連中は皆牛飼いのような容貌をしています」。

 まずカピトリーノの丘に登って、古代に思いを馳せるとしても、ルネッサンス期以降の建物が眺望を妨げている、現代のローマで、何を見たらよいのでしょうか。明治、大正の先輩の中には、アンデルセン『即興詩人』を手元に置いた人もいました。その中の一人といってもよいと思いますが、和辻哲朗『イタリア古寺巡礼』もお薦めの一冊です。




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